2005年3月21日〜抗ウィルスのためのWINDOWSカスタマイズのススメ〜

ウィルスの手口は巧妙である。
最近新しくパソコンを組みたててみた。何しろ初めてやることだったので、不安だった。それなりの大金を叩いて買ったパーツを壊してしまってはいけないと慎重にならざるを得ない。英語のマニュアルと格闘し、自作解説本を頼りに何とか組み上げることができた。そして、OSのインストール、アプリケーションのインストールも済み、新しいパソコンの環境が、整った。
 そのときまでは、すべてが順調だった。
真新しい私の自作パソコンはウィルスに感染した。
組み立てから2〜3日後。どこからまぎれたのかウィルスキラーが、ウィルスを検出した。いや、実はそこにウィルス入りのファイルがあることを私は知っていた。以前感染したときの元のファイルが外付けのハードディスクに残っていたのは知っていた。それが検出されても驚くことはない。
ウィルスキラーは、当然そのファイルを検出し、隔離した。
そこまでは良かった。私が妙な好奇心さえ出さなければ良かったのだ。
隔離されたファイルを私は復元し、デスクトップに保存した。
 デスクトップにウィルスのファイルが現れた。しかし、その実行ファイルのアイコンはWINDOWS標準のフォルダの形を持っていたのだ。私は、うかつにもそのファイルをウィルス本体ではなく、その中にウィルス本体が格納されているフォルダであると思い込み、ダブルクリックしてしまった。そして、ウィルスが、活動をはじめた。
OSのインストールからやり直しとなった。
ウィルスの対策は、ソフトだけで行うものではない。現に完璧に機能していたウィルス対策ソフトだったがその防御に穴をあけたのは私自身のうかつさだった。
このウィルスの巧妙さは、コンピュータではなく人間を騙すところにあったのだ。
自分を擁護するつもりではないが、人間は慣れた動作を無意識にやりたくなるのだそうだ。
私も、パソコン上で絵を描いている時と同じように紙に絵を描いているときでも思わず『元に戻す』を使いたい衝動に駆られる。
無理なのはわかっているのだが、やりたくなってしまうのは仕方がない。
今回も同様で、フォルダのアイコンはクリックしてしまうの普段のパソコンを使っている人の常なのだ。
これを未然に防ぐための方策を考えた。フォルダのアイコンを変えてしまうのだ。WINDOWSは狙われている。標準のままWINDOWSを使用することが非常うに危険であるこれは、今回再確認した。高い授業料ではあったが。
というわけで、巷でよく言われてるようにインターネットエクスプローラーやアウトルックエクスプレスのを使うのをやめ、同等の機能のあるほかのブラウザ、メーラーに乗り換えるのはもちろんのこと、ウィンドウズの外観も自分好みにカスタマイズしてみるといい。
ウィルスから身を守るために。
参考URL
ウィンドウズの代表的なカスタマイズソフト
『窓の手』
http://www.asahi-net.or.jp/~vr4m-ikw/

2005年3月5日〜携帯電話〜

最近携帯を買った。
私にとっては初携帯である。いや、それまでPHSを使っていたわけではあるから、特に目新しい訳でもないのだが、なんにせよ新しいものを買ったときは妙に浮かれるものである。
機種はAUのW22H。
第3世代携帯で電波状態が良いものが条件だった。とりあえず、PHSの電波状態にいい加減うんざりしていたので、F○MAは論外。それならPHSでいい。ボーダの3Gという手もあったが、外資系も何となく非国民みたいな気がしたのでパスした。
最近の携帯は凄いという噂だったが、実際少し使ってみて、端末の機能としては、前から使っていたPHSと大差ないようだ。むしろフルブラウザと外部メールの受信が可能なメーラーのあるPHSのほうが便利よかったりする。
しばらくは併用する事になるだろうが、いずれPHSはデータ専用端末に変更するだろう。
そういえばドコモはPHS事業から撤退するようだし、DDIポケットはWILLCOMへと変わった。PHSは一社独占になってしまうようだ。そのうち。
サービスの低下とか無ければいいなぁとか心配する今日この頃。
なんか、PHSの話になってしまった。
話を強引に戻そう
やっぱ携帯はいいぞ。繋がりやすい。切れにくい。
まるで、腐れ縁みたいだ(ぜんぜんフォローになってない)

2003年7月28日〜ボランティア〜

ボランティア活動が脚光を浴びている。
無償の奉仕といえば聞こえは良いが、賃金支払いのない労働である。資本主義経済の今の世の中、こんなものがあって良いのだろうか?
確かにその精神は、賞賛すべきものではある。
しかし一方では、生活費を稼ぐため働きたいが、働く場所を見つけられない人たちも多く居るのを忘れてはいけない。
不況の中、ただで人が使えるのならば、それを利用しない手はないといった下心がどうも見え隠れしているような印象を受けるのは、私の勘ぐり過ぎだろうか?
採算の合わない事業だが必要としている人はいる。そういった事業においてボランティアが使われて居るのだろう。
私が言いたいのは、働いたものにはそれに見合った賃金を支払えということなのだ。そうでなければサービス残業などの違法労働と本質的に違いがない。
それでも、奉仕したいという人のために、労働の場ととも一度支払われた賃金を寄付する窓口を併設すれば良い。本当に善意あふれる人が多く居るのならば、間違いなく寄付は集まるだろう。そして集まった資金を新たな活動のために使う。
この構造だと、資金が増えることはない。、働く時間はないが、善意のある人が寄付できる窓口を開いておくことで、補うことはできないか。
ともかく、ボランティアとは善意である。しかし、金がものを言う世の中、善意だってその価値を金に換算しなければ世の中狂ってくるような気がする。
金払えよな。
私はそれが言いたかった

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